エージェントはもう買い物をしている——ブランドが気づいていない権力シフト
シリーズ 3 「エージェントが買う時代——コマースの主権は誰の手に」第1回 (想定読了時間 約7分)
先週、とある消費財ブランドのECマネージャーは、売上ダッシュボードの流入元リストに見慣れない表示を見つけた。「chatgpt.com」——リファラーの列に、そう記録されていた。クリックしてみると、着地していたのは特定の商品ページで、そこから決済完了までの滞在時間は、驚くほど短かった。まるで、来訪者はサイトに辿り着く前から、何を買うかを既に決めていたかのようだった。マーケティング側は何も仕掛けていない。広告も、キャンペーンも、そこには存在しない。
このECマネージャーの戸惑いは、特殊な事例ではない。いま、多くの企業のダッシュボードで、同じ光景が静かに広がっている。購買の意思決定は、もうチャットの中で行われている。決済という最後の一手だけが、かろうじてブランドのサイト上に残されている。ブランドの多くが、その事実にまだ気づいていない。
ところが、同じ消費者に「AIに買い物を任せたいか」と尋ねると、答えは全く違う表情を見せる。多くの人は「まだ早い」と答える。決済の瞬間だけは、自分の手元に置いておきたいという感覚が強く残っている。
エージェントは既に、購買の意思決定に食い込んでいる。だが消費者は、まだ決済の実行そのものをAIに任せたくない。この矛盾こそが、本シリーズの出発点である。
数字で見る、コマースの地殻変動
第三者機関がまとめた市場調査データによれば、米国のEC市場は2030年までに$1.8兆、グローバルのEC市場は2028年までに$6.8兆に達する見通しだ。この拡大の背景には、AIを介した商品の発見・比較検討の急増がある。AIを介したショッピングクエリ(商品に関する質問・検索)は、単年で+4,700%という規模で増加した。
この動きは、統計上の数字だけではない。消費者の58%は、もはや従来の検索よりもAIを使った商品探しを優先しており、AI経由のリファラーは2025年通期で+304%増加した。2025年のホリデーシーズンには、世界全体の注文の20%がAIエージェント経由となり、その規模は2,620億ドルに達したと報告されている。Shopify自身の発表によれば、2025年1月以降、AI経由のトラフィックは7倍に増加し、AI経由の注文は約11倍に伸びた。さらに注目すべきは、AIチャネル経由で獲得した新規顧客が、他チャネル経由の顧客と比べて約2倍の速度で発生しているという事実だ。
日本市場に目を移すと、この地殻変動はまだ緩やかにしか届いていない。経済産業省「令和6年度 電子商取引に関する市場調査」によれば、2024年の国内BtoC-EC市場規模は26兆1,225億円。物販系分野の成長率は3.70%、EC化率は9.78%に留まる。米国の年率数千%規模のAIショッピングクエリ増とは対照的に、日本のEC市場はここ数年、着実だが穏やかな伸びを続けている。さらに、矢野経済研究所の予測では、日本の小売市場全体は2030年に114兆9,770億円まで縮小する見通しだ(2022年比約14%減)。人口減少という構造的な逆風の中、それでもチャネル別で最も高い伸長率を示すのがECだという。つまり、市場全体のパイは縮みながら、その中でのECの取り分は増えていく——競争の場は、実店舗からECへ、そしてECの中でもエージェント経由の購買へと、二段階でシフトしていく可能性がある。
これらの数字が示しているのは、単なる「新しい流入チャネルの追加」ではない。購買という行為そのものの起点が、ブランドのサイトの外へ移動しているという構造変化である。
「まだ早い」と言う消費者と、既に買っている現実
では、消費者自身はこの変化をどう感じているのか。Cognizant と Oxford Economics が実施した調査「New Minds, New Markets」は、この問いに具体的な数字で答えている。
同調査は、購買ジャーニーを Learn(学ぶ)・Buy(買う)・Use(使う)の3フェーズに分解し、各フェーズにおける消費者のAI受容度を指数化した(原語:Comfort Quotient、本シリーズでは「AI受容度指数」と表記)。結果は、驚くほど非対称だった。
Learnフェーズの指数は47。商品を比較・検討する場面では、消費者はAIを比較的歓迎している。Useフェーズの指数は39。購入後の活用支援でも、AIは一定の受容を得ている。
ところがBuyフェーズ——まさに「買う」と決める瞬間——の指数は、わずか27。3フェーズの中で最も低い。消費者の75%は、高額品についてAIが自動的に再注文・決済することを許可する意向を持っていない。「何を、いつ買うか、どの決済手段を使うか」を自分でコントロールしたいという意識が、この局面で最も強く働く。
つまり、消費者は「比較は任せてもいい。だが決済は自分で決めたい」と考えている。この心理は、決して不合理ではない。むしろ、まっとうな警戒心だと言える。
問題は、この消費者心理と、市場で実際に起きている出来事との間に、大きなズレが生じていることだ。消費者の多くが「AIに決済を任せるのはまだ早い」と考えている一方で、米国ではMicrosoftのCopilotが、チャットを一度も離れずに決済まで完結させる「Copilot Checkout」を既に稼働させている。信頼が最も薄い場所で、最も具体的な経済行為——決済——が、少なくとも一部の市場では既に進行している。この非対称こそが、ブランドが向き合うべき最初の現実である。