見えない売上、測れない離脱——エージェント経由コマースの計測ブラインドスポット
シリーズ 3 「エージェントが買う時代——コマースの主権は誰の手に」第2回 (想定読了時間 約8分)
あるブランドのCMOは、社内会議で報告を受けた。「AIエージェント経由の売上が、明らかに増えています」。CMOは聞き返した。「その売上は、どのレポートに載っている?」
担当者は答えに詰まった。SNSでの言及は増えている。ChatGPTで自社製品名を検索する人も増えている実感がある。だが、それを裏付ける売上データは、どのダッシュボードにも表示されていない。増えているという確信と、それを証明する数字が、どこかで切れている。
前回、消費者のAI受容度指数(第1回参照)が「Buy」フェーズで最も低い(27)にもかかわらず、エージェントは既に決済まで進めているという非対称を提起した。今回はもう一段深く、その非対称の内側にある問題を扱う。エージェントが買い物を代行し始めている一方で、その行動を正確に測定する仕組みが、多くの企業でまだ整っていない。
「主流になった」という物語と、まだ会話止まりの現実
エージェント経済に関する語りの多くは、「もう主流になった」という前提で進んでいる。ニュースも、業界イベントも、ベンダーの売り込みも、この前提を共有している。
だが、Forresterが2026年に発表した「The State of Agentic Commerce」の分析は、この前提に慎重な留保を加える。同レポートによれば、現時点で「エージェント的」とされる体験の大半は、実際には会話型の商品発見・推薦にとどまっている。決済や最終判断の局面では、依然として人間が主導権を握っているケースが圧倒的に多く、真の自律的購買はまだ稀だという。
この慎重さを裏付けるのは、消費者調査だけではない。検索行動そのものの数字を見ても、AIへのシフトは「主流」と呼べる段階には程遠い。決済インフラ企業Adyenが自社の立場から示す分析によれば、AIプラットフォームの利用者の99%は、依然として従来の検索エンジンも併用している。Googleの日次検索数は、ChatGPT検索の373倍に達し、世界の検索クエリ全体のうちAIプラットフォーム経由はわずか2%にとどまる。デスクトップでのAI検索トラフィックは前年比2倍というペースで伸びてはいるが、検索全体の98%は、依然として従来型の検索が占めている。
この慎重さは、消費者調査の数字とも整合する。米国消費者のうち、AIに注文の実行を委ねる意向を持つのはわずか14%。相対的に高いZ世代でも29%、ミレニアル世代でも30%に留まる。一方で、AIによる価格比較を信頼する消費者は65%に達する。つまり消費者は、「比較は任せてもいい。だが、決済の実行は自分の手で行いたい」という一線を、はっきりと引いている。
ハイプは、この一線の手前で止まっている行動を、その先まで進んでいるかのように語ってしまっている。
見えないところで起きている売上——計測ブラインドスポットの正体
問題は、語りの誇張だけではない。仮にエージェント経由の取引が実際に起きていたとしても、多くの企業はそれを正確に捉えられていない。
従来のWebアナリティクスは、人間がブラウザを操作し、ページを遷移し、クリックすることを前提に設計されている。ところがエージェント経由の取引では、この前提の多くが崩れる。会話はAIプラットフォームの中で進み、ブランドのサイトに到達するのは、決済が完了する直前だけかもしれない。リファラー情報が正しく伝わらないケースもあれば、そもそもページビューという概念自体が発生しないケースもある。既存の計測手法は、エージェント経由のフローの大部分を、そもそも「見る」ことができない。
決済インフラ企業Adyenが公表した分析「Agentic Commerce Has an Infrastructure Problem」は、この問題を実務の現場から具体的に描写している。デモ環境で滑らかに動くエージェント購買体験は、本番のコマースシステムに触れた瞬間に破綻することが多いという。さらに同社の観察によれば、エージェント経由の取引は、既存のECと比べてチャージバックや返金の発生率が既に高い。取引量そのものはまだ僅少だが、測定の甘さがそのまま損失に直結する構造になっている。
決済モデルの不安定さも、この計測の難しさに輪をかけている。ChatGPTの「Instant Checkout」機能は、4%の決済手数料とともに導入されたが、半年も経たずに規模を縮小し、商品発見機能へと軸足を移す方針転換が行われた。日本市場には、導入されることなく終わっている。その内実はさらに厳しい——Shopifyの数百万に上る加盟店のうち、実際に購入ボタンを有効化した加盟店は「1ダース程度」にとどまっていたとの業界報道もある。Forresterも、「Shopifyのチャット連携への公の熱狂が何ヶ月も続いた後、実際に購入ボタンを有効化した加盟店は1ダースに満たなかった」と指摘しており、Forbesも同様に「わずか1ダース程度(only about a dozen)」と報じている。OpenAI自身も「初期版のInstant Checkoutは、我々が目指す柔軟性を提供できていなかった」と認め、商品発見機能への軸足移動を表明している。一方、Microsoftの「Copilot Checkout」は、2026年1月の発表以降、米国でPayPal・Shopify・Stripeとの連携により稼働を続けている。同じ「チャット内で決済を完結させる」という発想でも、プラットフォームによって明暗が分かれている。さらにPerplexityの「Buy with Pro」も、現時点では米国のPro会員限定にとどまる。どのプラットフォームが、どの条件で、どれだけの経済的果実を生むのか——その計算式自体が、まだ固まっていない。そして、そのどれもが、日本市場にはまだ届いていない。
「エスケープハッチ」問題——複雑な会話ほど、記録から消えていく
もう一つ、見落とされがちな脱落点がある。クーポンの適用、ロイヤルティプログラムへの登録、サブスクリプションの配送頻度選択——こうした複雑な操作は、多くの場合、エージェントとの会話の中では完結しない。会話は途中で中断され、消費者はブランドの埋め込み型チェックアウト画面へ「脱出」させられる。
この脱出自体は、悪いことではない。複雑な選択には、人間の確認が必要な場面が確かにある。問題は、この脱出点で何が起きているかを、多くの企業が測定していないことだ。何割の会話がここで離脱しているのか。脱出後、実際に購入まで到達しているのか。この「エスケープハッチ」を通過する消費者の行動は、会話型AIの分析にも、従来のECアナリティクスにも、きれいには収まらない。測定の網の目から、静かにこぼれ落ちている。
ハイプが行動に先行するとき、投資判断はどう歪むか
これらの問題が重なると、経営判断そのものが歪んでくる。「エージェントが主流になった」という前提のもとで投資を進める企業は、実際の行動データを確認する前に、予算配分を決めてしまう。決済インフラを提供する立場にあるAdyenが自社の提言として述べるように、企業に求められているのは、既存の「カゴ落ち対策」という人間向けの発想から、「ゼロ・クリック・コマース」という、AIエージェントを主役に据えた投資マインドセットへの転換だ。だが、この転換自体を、感覚ではなく実測データに基づいて行っている企業は、まだ少数派だろう。
ハイプに先行して投資判断を下すことは、必ずしも間違いではない。だが、それをそのまま放置すれば、成果を検証する手段を持たないまま、投資だけが積み重なっていく。